六角堂について

歴史

太平山連祥院は、天長四年(八二七年)慈覚大師円仁により創建されました。その後連祥院は、淳和天皇御宸筆の勅額を賜り永世勅願所となり、太平山の神事・仏事をすべてとりしきる別当寺院となりました。

創建より七百余年は平穏でしたが、天正十三年(一五八五年)、皆川氏と北条氏が太平山上において、数十日間に亘る戦を繰り広げ、多くの寺院、社宇が焼失してしまいました。戦後直ちに当時の連祥院住職が、太平山内の寺院、社宇の復興に着手し、三年後の天正十六年には主な堂宇が再建されました。江戸期に入り、徳川家との深い関係(四代将軍家綱の生母高島御前が、太平山南麓瑞穂村高島の生まれで太平山を尊崇していた。)から、連祥院は延享三年(一七四七年)に大寺格に昇進し、近郷の多くの人々の信仰をあつめました。

明治期以前まで太平山は、神仏が混在しており、山上には慈覚大師円仁が創建した太平大権現社、当山のご本尊虚空蔵菩薩を安置した本地堂、釈迦堂、大日堂等の堂宇が並び、下に仁王門(現在は随神門。当時は連祥院の仁王門でした。現在でも裏側に仁王さまが安置してあり、かつて寺院として栄えた頃を偲ばせる建造物です。)そして、あじさい坂のわきには、三光院、多聞院、法泉院、報恩院等の寺院がありました。

しかし、明治期の神仏分離令により太平山における仏閣、寺院、別当所は廃棄され、僧侶の祭事に列する事も止められました。太平山の本地仏虚空蔵菩薩はなんとか難を逃れ、旭岳へ仮本堂を建て安置されました。明治二十年には新しい本堂が建立されましたが、同三十五年暴風雨により倒壊してしまいました。その後有志者により、今日の連祥院本堂が明治三十八年に建立されました。連祥院本堂は、京都の六角堂を模して建てられましたので、六角堂と呼ばれております。

現在の本堂は、昭和の終わりから平成にかけて行なわれた本堂洗浄・屋根改修工事によって建立当時の優美さを今なお保ち続けています。

堂内には、虚空蔵菩薩(秘仏)、愛染明王、不動明王が安置されており、向拝には、親子龍の左上に虚空蔵菩薩と関係の深いうなぎの彫刻があります。

境内・周辺案内

虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ(栃木県指定有形文化財)

虚空蔵菩薩 写真は御前立 (秘仏本尊開帳 1月1日〜5日)

虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ

寺伝によると、当山のご本尊虚空蔵菩薩像は、山城国山崎国宝寺の聖徳太子御作と伝えられる仏様で、慈覚大師円仁が夢の中で観見し、淳和天皇に請い太平山に移したとされています。

しかし、文化財申請の際に鑑定しましたところ鎌倉時代の作であることがわかりました。国宝寺からの虚空蔵菩薩像は災難にみまわれ消失し、同じお姿の仏様を作られたのではないかと思われます。

虚空蔵菩薩は、大空のごとく果てしのない大きな蔵を持ち、その蔵の中に限りない智慧と福徳をおさめており、人々の求めに応じて智慧を授け、福徳を増進し、災いを滅除するといわれていることから、智慧と福徳の仏様といわれています。

また、丑年・寅年生まれの守本尊、かぞえで十三歳になった子供が詣でる『十三まいり』、子安、塗師屋信仰、豊作祈願の仏さまとしても信仰されています。

虚空蔵菩薩 ご真言
『ナマク アキャシャゲルバヤ オン アリ キャ マリ ボリ ソワカ』
愛染明王

愛染明王あいぜんみょうおう

自己中心的な欲に染まるのではなく、自我を離れ生あるものすべてに対し、救済に向かう欲に染まらせ、悟りを開く心に昇華させる仏様です。

菩提心の堅固を表す燃える日輪を背にし、体は愛欲の激しさを象徴する赤色で、三目六臂(三つの目 六本の腕)手には弓矢等を持ち、表情は忿怒の相です。

愛染明王は、良縁成就や結婚成就、夫婦円満などの愛敬開運を授けてくださるといわれています。また、接客業、染物業の方々にも信仰されています。

愛染明王 ご真言
『ヲン マカラギャ バシロシャニシャ バサラサタバ ジャ ウン バンコ』
不動明王

不動明王ふどうみょうおう

如来の教えに背く衆生を、圧倒的な威力によって教化するために大日如来が恐ろしい姿を仮に現した仏様です。

忿怒の相を示し、右手には煩悩を斬滅する剣を持ち、左手には仏の教えに従わない者を縛りつける羂索を持っています。

不動明王は、煩悩や罪障を断ち、大いなる智慧を授けてくださり、偉大なる慈悲によってさまざまな願いをかなえてくださる仏様です。

不動明王 ご真言
『ナマク サマンダ バサラナン センダ マカロシャナ ソワタヤ ウンタラタ カンマン』